価値観を押し付けたくない気持ち
先日、「先まわりして教えたい欲」のことを書いたんだけど、私は子どもに「何かを教えないと」と思う以上に「余計なことを教えないように、台無しにしないようにしないと」と思うことのほうが多い。子どもが自分なりの視点や尺度で物を見たり、考えたり、選んだりするのを邪魔したくないという気持ちがある。
そこで難しいのは、やはり大人とは違って、子どもには教えないといけないこともたくさんあるところ。「子どもは何でも知っている」などと勝手な願望を投影して賞賛したり、大人というか保護者としての責任を放棄するのもおかしいし、実際のところ子どもは知らないことだらけだから。
たとえば、衣食住のことや基本的なマナーはもちろん、子どもが親しくない人に身体的なことや個人的なことを唐突に聞けば「それぞれに事情があるから土足で踏み込んではいけないこと」を、友達が自分だったら嫌じゃないことを嫌がると言えば「それぞれに嫌なことが違うから、相手が嫌がることをしてはいけないこと」を、明後日の方向を見たまま謝れば「謝るときは目を見て謝ること」を理解できるように説明しなくちゃいけなかったりする。
ただ、教えるべきことの取捨選択には、必ず私(親)の価値観が入りこむ。どうしたって私というフィルターを通して物事を教えることになる。そして、子どもは私の価値観を少なくとも小さなうちはまったく否定できないし、全面的に受け入れざるを得ない。たとえ極端な考え方を押し付けられても、知恵も力も対等じゃないし、たいていの場合は親のことが好きなのも手伝って受け入れてしまう。
私の親のフィルターは「正しさ」だった。だから私の偏りは明らかに「正しさ」にこだわるところで、20代くらいまでは呪縛が強くて少し不便だったし、今もとらわれすぎないよう気をつけてる。よそでは「清貧」がフィルターになっていた例もあるし、それぞれにあるんだろうと思う。だから「どれが、どこまでが一般的なマナーなのか/どれが、どこからが自分の個人的なこだわりなのか」、はっきり線引きはできないけれど、ちょっと気をつけることが大切なのかもしれないと思う。
子どもと一緒に暮らしているだけで私の価値観は伝わるし(それは別に悪いことではない)、押し付けないことはなかなか難しいけど、少なくとも押し付けないよう気をつけること、本人の意見や気持ちを聞くこと、本人の選択を尊重すること、代わりに選択したり決定したりしないこと、くらいはできそう。