日々雑録

40歳、書籍編集者の日記です。

「経済的自立」という言葉

たまに「経済的自立を!」「私はこうしてきた!」「みんながんばればできる!」という強い主張を見かけると、ちょっと微妙な気持ちになる。

ひとつは、人はそれぞれに生まれ持った性質(身体的にも内面的にも)も、生育時の環境も、現在の環境も、出会いも運も違うわけで、今の社会に適応することの難易度だって同様に違うからだ。もちろん、努力もある。けれども努力だけではないはずで、それを念頭に入れていない感じがすると(ウウウーン)って気持ちにさせられるんだと思う。なんとかできたって適性のないことはつらいし、他人が短時間でできることに長時間かかったら、コスト(しんどさも)が違いすぎる。

もうひとつは「経済的自立」という言葉が、すごく刺さりそうだと思うから。言葉の問題かもしれないけど、「自立」という言葉は「依存」という言葉を想起させるわけで、昨今のようにあらゆる依存が悪かのように言われていれば、人によっては嫌な気持ちになるんじゃないだろうか。もちろん、経済的に自立しているに越したことはない。ただ、子どもや若い世代には経済的自立のメリットを伝える必要はあっても、ほとんどの大人は知っているはず。それでもできない(しない)場合には何らかの理由があるのだから、声高に叫ばれても困る。

そして、この言葉を専業主婦(主夫)に向ける場合は特に違和感がある。今まで実際に専業主婦のひとが「経済的に自立していないから」と卑下する場面を何度も見てきた。逆に「経済的に自立した働くママは離婚しがちでよくない」と自分を肯定するために攻撃的になっているひとも見た。夫婦間や家族間で分業しているだけで専業主婦だって働いているのに、そう思わせない空気があるんだろう。そもそも何が理由でも働いていないことを卑下する必要なんてないと私は思うのだけど。

確かに「独自の収入源」がないということには、大きなリスクがある。収入を確保している人(配偶者や家族など)が病気になったときや亡くなったとき、別れたくなったときなどに確実に困る。でも、家族の大人全員が働いていてもリスクはある。家族の時間が持ちづらく、家事などに追われがちだ。子どもや要介護者がいる場合は余計に時間がなく、十分にケアできないかもしれない。また、たくさんの子どもを産み育てるのはなかなか難しいし、どう考えたって子どもはできるだけたくさんの時間を親(母でも父でもいい)と共に過ごしたいだろう。

先日、会社員の友達と、子どもが小学生になってから夏休みなどの長期休暇に毎日学童に通わせるだろうことについて話した。私たちの母は専業主婦だったので、長期休暇には友達と公園や川や山で自由に遊んだり、だらだらしたり、普段はできないことをした。無為な時間や自由は最高でかけがえのないものだ。それに暑さ寒さの厳しい時期にはマイペースに過ごしてほしい。でも、私たちは共働きなので、たぶん同じことをさせてあげられないだろう。共働きのメリットもあるから罪悪感こそないものの、やはり少し残念な気持ちにはなる。配偶者と別れたら経済的にまずいというリスクは低い。けれども、別のリスクはあるのだ。

本当はいったん仕事から離れても復職しやすかったなら、もっと多様な働き方が可能なら、1か月くらいのバカンスがとれたなら、男でも女でも専業でも兼業でもあらゆるリスクが低くなる。人じゃなくて社会の仕組みが変わったほうがいい。