日々雑録

40歳、書籍編集者の日記です。

父が最後に教えてくれたこと

少し前、夫が何かの話のついでに「清之さん(父)、子どもが生まれてすぐの産院からの帰りに車の中で“これからマオ(私)は大変で、きっとうるさくなるだろうけど、勘弁してやってくれよ”って言ったんだよ。自分の病気がわかったばかりなのに」と教えてくれた。初耳だ。早く教えてくれよ。続いて「本当に強烈な人だったけど、魅力もすごくて、死ぬ前は特にかっこよかったよな」と。

そう、我が父ながら死ぬまでの2年間は特にかっこよかった。

2011年の夏、臨月の私は里帰り出産のために実家に戻っていた。それまで元気いっぱいだったものの、予定日近くなると息をするのも苦しく、また久しぶりの田舎は落ち着かなくて(早く産んでしまいたい)と思っていた頃。父が帰宅するなり「がんだった。もう手遅れだ」と言った。普段穏やかでやさしい母は気が動転して「やめてよ! なんで今なの!せっかく孫も生まれるのに!」「だから、お酒とかタバコとかやめてって言ったのに!」と激怒して詰め寄り、父はただ受け止めていた。

それから2年。父は家族のために、というか母のために1日も長く生きるべく東京の病院に通いながら闘病した。もちろん家族も常に心配して病院に通って大変だったけれども(夫は私が行けないときも、羽田空港と病院の間を車で送迎してくれた。孫を見せるために子連れで)、一番大変だったのは父だ。本当はもう治療なんかしたくなかったと思う。だけど、抗がん剤でフラフラになりながらも病院に行けば喜んでくれて、私たちに「お前たちが来てくれたから良い日だ」「お前たちは偉いな。俺よりもちゃんと子育てしてる」「おおらかでいい」と必ずお礼を言ったり褒めたりした。

2013年のゴールデンウィーク、私たちは孫を見せようと帰省したけれど、父はイライラして落ち着かない。それまで「できるだけ、みんなに会いたい」と言い、いつだって喜んでいた父だったけれど限界がきたのだ。そのまま早めに帰京しようと思った。そうしたら父が静かに口を開き、「ごめんな。こうして病気になって死ぬとわかってから、下手に長生きしすぎて、お前たちに負担をかけなくてよかったとも思うんだ。本当に本当に心底そうも思う。だけど、一方で早すぎて“どうして俺が! なんで俺なんだ!”という苛立ちが止められないことがある。お前たちがずっと俺を心配してくれて顔を見せてくれて、ありがたいと思ってる。予定通りもう少しいてくれ」と話してくれた。そうだ、私が(どうして私の父なのか!)という気持ちになる以上に、父自身が思っていたはずなのだ。病気になるのに、死ぬのに、理由なんかなくて理不尽だから。このとき、私は泣きたかったんだけど我慢してしまった。本当は泣いたらよかったと思う。そうすれば父も一緒に泣けたかもしれない。

2013年の夏、いよいよ意識を失って入院した父。そこでも意識が混濁しつつも、やはり引っ越しをした話をすれば「すごくいいな。子どもの環境のことを考えたんだろう。二人とも大人になったな」と褒めてくれた。今思い返しても、最後の最後まで褒めてくれたなあと思う。 

父は、もともと詐欺師のように話がうまく不謹慎で面白かったけれど、若いときは極端に左よりで強烈に傲慢で我儘だった。でも、世の中を良くしたいという気持ちが強く、様々な人の手助けをするうちに少しずつ中庸になり、そのうちに傲慢なところも減っていき、やさしいところが増していった。どんな人とでも対等に話し、美点を見つけては感心していたし、今思えばいろんな人に出会って変わっていったんだろう。私や弟からも影響を受けたと話していたことがある。若いときと年を取ってからでは全然違った。さらに病気になってからは、もっと違った。

親が最後に教えることは「死」だと言う。父は死に方や病気の本人や家族がどんな気持ちかだけでなく、人は死ぬまで変われる可能性があるということを最後に教えてくれた。遠い将来、私がこの世を去るとき、子どものことを褒めたいと思った。別に父と同じでなくてもいいんだけど、できたら同じように褒めたい。「痛い、痛い」「死にたくない」と騒ぐおばあさんになるような気もしないでもないけど。